み教えに学ぶ

親鸞聖人は、その主著である『教行信証』(『顕浄土真実教行証文類』)の総序に、「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」と述べてくださっています。
「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり」私たちが迷妄の人生のなかで、真実の教えに遇うことは、困難を伴います。それは私たちが、自らの生き方に真摯に向きあおうとしていない、換言すれば、真実の生き方を求めようとしていないからだと言えます。
そうした私たちの現実を覚りの智慧をもって照覧されている阿弥陀如来は、私たちを迷いから解き放とうと、本願を立ててくださいました。
ここで、「本願」とは、阿弥陀如来が、「覚りの仏さまになる以前(法蔵菩薩であったとき)の願い(因位の願)」という意味で、阿弥陀如来という仏さまになる目的が、私たちを迷いから解放し、救いとげるところにあったことを表しています。
親鸞聖人は「西蕃・月支」(インド・パキスタン・アフガニスタン地域)の聖典や、東夏・日域(中国・日本)の経釈に説かれているのであり「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる」とお述べになっています。
親鸞聖人が、阿弥陀如来のお心を明らかにしてくださったことにより、私たちが浄土真宗のみ教えに遇うことができるのです。
み教えに学ぶことは、私たちが今どう生きるのかということを、如来のご本願に照らされて、明らかになっていく道程でありましょう。